由来 |
天平13年(741)、聖武天皇の勅願により行基菩薩が開山された。本尊は行基菩薩の御作で「生身の観音」とも呼ばれている。嘉祥年間(848-851)慈覚大師が中興されて以来、台密の道場となった。
現在の本堂は鎌倉時代末期の元寇に際し、本尊の霊験と全山あげての元軍退散の祈祷を修したことへの謝意として、弘安11年(1288)近江守護職・佐々木頼綱が建立した。鎌倉期和様建造物の代表的なものとして国宝に指定されている。この時代が当山の最盛期で、東西南北の四谷に分かれ百余の坊舎が甍を並べていた。
天正元年(1573)、織田信長の兵火に見舞われたが、幸い本堂や三重塔、二天門などの主要建造物は難を免れた。
江戸時代にいると、徳川家光公が朱印地30石を寄進され、彦根藩主・井伊直孝侯、天海大僧正らの助力により復興がはかられた。明和の頃には、明寿院他12坊、末寺2か寺を有し、その時の住持が、後に延暦寺の執行探題職に就いた豪恕大僧正である。
明治維新では、境内山林全て上地の悲運にあい、僧侶も全員退山還俗させられ、明寿院と常照庵の2坊を残すのみとなった。
しかしながら明治、大正、昭和の激動の時代を歴代住職の尽力によって維持、復興が続けられ、特に昭和53年には、江戸時代からの悲願であった三重塔の復元修理が完成した。 |